カオフラージュ
25
食事を終え、山下公園へとやってきた愛と記憶を失くした男は中央入口に近いベンチに腰をおろした。目の前には噴水があり、そこに建つ女神像は今まさに噴出する水の中から、姿を現したばかりといったたたずまいだ。
「ごちそうさまでした。生き返った気分です。本当においしかったです。愛さんの、お知り合いのあのコックさんにもちゃんとお礼を言いたかったのですが、なんかお忙しそうだったみたいなので」
「ああ、いいんです。気を使っていただかなくて。金ちゃんは私にとって兄貴みたいなものですから」
微笑む愛の目の前にどこからかサッカーボールが飛んでくる。
「すいません。ボール返してもらっていいですか?」
背後から、少年たちの叫ぶ声が聞こえる。
「行くよ」
彼女はそう言うと、サッカーボールを少年たちの方へと蹴り返した。するとボールはあらぬ方へとカーブして飛んで行った。
「あ――」
少年たちが声をあげる。
「ごめんなさ――い」
愛は大きな声で言った。
「キャッ、キャッ」と少年たちの楽しげな声が遠く響いている。彼女は微笑みながら、しばらくその様子を目で追った。すると、少年たちのさらに向こう側の木立の陰からハンチング帽に黒いサングラスの男がこちらを見ているような気がした。男は彼女の視線を感じると、あわてて顔をそらし、姿を消した。
「なんなの?」
彼女はそう言って、思い出したようにベンチに目をやると、記憶喪失の男は座ったまま眠っていた。
彼女は彼の隣に座り直すと、もうすぐ夕暮れ時を迎える静かな海に浮かぶ、氷川丸の雄大な姿を眺め、小さく微笑んだ。
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