カオフラージュ
10
記憶を失くした男はとりあえず、マンションを出たが、そこがどこなのかはわからなかったので、適当に歩いて、まず自分がいる場所がどこなのかを確認することにした。人に聞こうとも思ったが、なぜか怖くなってしまいそれは止めることにした。
歩き出すと、彼はすぐに猛烈な暑さを感じた。昼時で太陽は真上にあり、容赦なくその身からあふれ出る光の束を矢のごとく降り注いでいる。気がつけば、まわりを行きかう人たちがみんな半袖を着ていた。どうやら季節は夏らしい。
と。
いきなり目の前に海が現れた。彼はすぐにそれが横浜の海だとわかった。そして、急速に自分がこの場所に土地勘があることを思い出してきた。
彼は先ほどのいくつかの場所が記されたリストを書き写したメモを探して、デニムの後ろポケットに手をやると、厚みのある革の黒い長財布があった。財布のなかには一万円札が二、三十枚入っていた。驚いてあわててポケットにそれを戻し、深呼吸をして今度はデニムの前ポケットを調べると、メモはそこにあった。
メモの一番目の場所は大和市だった。遠いなと彼は思った。すると、二番目に書いてある場所はそこからすぐの山下町だった。彼はとりあえずその場所に行くことにした。
産業貿易センタービルのそばにある九龍ビルは十六階建てのオフィスビルだ。
彼はガラス張りのビルの入り口の前で立ち止まり、屋上を見上げた。
「ここに一体何が?」
突然、フラッシュバック――屋上から見下ろす夜の街が頭の中をよぎる。
「なんなんだ?」
男は叫びそうになるが、なんとか気を静め、ビルの中へと入った。
その様子を少し離れた場所から謎の中年の男が見つめていた――ハンチング帽を目深に被り、黒いサングラスをかけている。
記憶を失くした男は一階の吹き抜けのエントランスに入ると、今度はめまいに襲われ、ふらふらと二、三歩進んだところで前方に倒れこむが、両腕を掴まれ、抱きかかえるように身体を起こされる。彼を助けたのはちょうどその場に居合わせた愛だった。
「大丈夫ですか?」
彼女は男の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、めまいがして。すいません。でも、もう大丈夫です」
「本当に? 顔色悪いですよ。お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないですか?」
「いや、大丈夫です。ありがとう。ところで、どこかにトイレはありませんか?」
「トイレ? あります。あのご案内します」
「いや、そこまでは。大丈夫ですから、本当に」
「すぐそこです。ちょうど私も行こうと思っていたし。さあ、行きましょう」
彼女はそう言うと、男に寄り添って、トイレまで連れて行った。
彼は彼女に礼を言って別れ、トイレに入ると、手洗い場へと向かい、鏡をのぞきこんだ。すると、急にまた激しい頭痛に襲われ、その場で気を失ってしまった――しばらくして意識を取り戻すと、男は同じ場所に立っていたが、息を吹きかけ、くもった鏡に書かれたメッセージがあった――ハルコに気をつけて
彼は驚き周りを見回すが、誰もいない。
「ハルコ?」
彼は確かめるように、その聞き覚えのない名前を口にした。
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