カオフラージュ
6
息を切らし、愛が駆け込んだ教会はちょうど今、聖書と祈りの会が終り、敬虔な信者たちがぞろぞろと教会を後にするところだった。山下公園の近くに建つ、この由緒あるプロテスタントの教会では毎週水曜日の夜に熱心な信者が集まり、聖書を学び、神に祈りを捧げている。
愛は胸のところで小さく十字を切ると、中央の通路を祭壇へと向かった。
「やあ、愛ちゃん。久しぶりですね」
彼女に気づいた牧師が笑顔で迎える。
「こんばんは。上野牧師」
彼女はバツの悪い顔をした。
愛はクリスチャンの母親に連れられ、幼い時から、姉の恵理と一緒にこの教会へは幾度となく足を運んでいた。神山恵理と愛は歳が二つ違いのとても仲のいい姉妹だった。外見がよく似ていたので、しばしば双子に間違われることもあった。しかし、性格はまったく逆で、普段はおっとりしているが、実は内面はしっかりしている恵理といつも元気いっぱいで何事にも積極的だが、本当は小心者なところがあり、姉に甘えてばかりの妹であった。
二人の父親は恵理が五歳、愛が三歳のときに交通事故で亡くなり、父親というものをよく知らない愛は自分でも気づかぬうちに、牧師になんとなく自分が思い描く父親のイメージを重ねていた。そのためか幼い時より、いつも悩み事があると、何でも牧師に相談してきた。特に三年前、恵理が大学二年、愛が高三の夏にそれまで再婚もせず、細腕一つで、二人を育ててくれた母親が心臓麻痺を起こし、いわゆる突然死してからは、頼れる親戚縁者もいなかった姉妹にとって、牧師の存在は精神的な支えであった。二人は週末や休みの日にはよく教会の催しものなどの手伝いをするようになった。母親が亡くなってから恵理はすぐに大学を辞め、働きだし、愛も高校卒業と同時に働き始めた。それから、二人は力を合わせ、それほど裕福な暮らしではなかったが、姉妹楽しく幸せにやってきた。
だが、一年前に恵理が突然、ビルの屋上から転落死した。それまでの幸せが、一瞬にして崩れ、天涯孤独となった愛の悲しみは深く、涙が枯れるまで泣き続けると、それまで飲んだこともなかった酒を浴びるほど飲むようになり、恵理の葬式の後は、ほとんど教会にはよりつかなくなっていた。
白を基調としたモダン・ゴシック調の重厚なたたずまいをみせる礼拝堂の長椅子に愛と牧師は並んで腰かけた。
「そうでしたね。今日は恵理さんの誕生日でした」
「うん。お姉ちゃん、いつもここにきて神様に幸せを祈っていた。ここからは私たちの声が必ず神様に届くって……」
「恵理さんにはなんというか不思議な魅力があって、周りにいる人みんなを笑顔にしてくれました。まさに天使のようでした」
「そのお姉ちゃんがどうして――」
彼女は顔を伏せ、泣き始めた。
「私にも……わかりません。ただ、これだけは信じています。恵理さんとご両親はもう苦しむことや悲しむことのない永遠のやすらぎの場所から、愛ちゃんの幸せをこれからずっと見守ってくれていると」
顔を上げ、牧師を見つめた彼女は今年で還暦を迎える彼の顔にいつの間にか皺が増えていたことに気がついた。そして、いつも笑顔を絶やさないその目尻に刻まれた深い皺にあらためて彼のやさしさを感じ、あたたかな気持ちになった。彼女は涙をふき、笑顔をみせた。
「ありがとう。そうだよね。お姉ちゃんきっと見ていてくれるよね。よし、頑張るぞ。お姉ちゃん、私が必ず犯人を見つけてみせるから、天国から応援してね」
「愛ちゃん、危険なことはよして下さい。恵理さんはそんなこと望んではいないと思いますよ」
「大丈夫だよ。心配しないで。無茶はしないから」
彼女は心の中で、嘘をついたことを神と牧師に謝罪した。
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