新生喜劇~LA RENASCITA COMMEDIA~
「彼は一九三八年、父親が亡くなった年に頭に大怪我を負い、死の淵を一か月間さ迷います――この時に彼はここへとやってきました。そして意識を取り戻した後、つまり下界へと戻った後、『バベルの図書館』を書き上げたのですが、それはわずかに残された記憶の断片を、朦朧とする意識の中で見た夢だと認識して、それをもとに想像も加えながら書いたものなのです」
年の頃は十代後半のように見えるが、妙に落ち着き払った感じで、淡々と話す彼を見ているうちになんだか私の方も落ち着きを取り戻してきた。そして、これが夢の中だということを思い出した。
「いえ、これは夢ではありませんよ」
私の考えを見透かすように彼が言った。
「いや、それこそ夢だろう。でなけりゃ、なぜ俺の考えていることがわかるんだ」
私は鼻息を荒くした。
「ここが夢の中ではないということをあなたに納得していただけるかどうかはわかりませんが、ここがどういう場所なのかをお話ししましょう」
それはこちらとしても願っても無いことだった。
「まず先ほどから申し上げているように、ここはバベルの図書館と言います。それからこの場所がどこにあるのかと言いますと、かつてあなたの世界の住人だった精神科医で心理学者のカール・グスタフ・ユングが言うところの集合的無意識の中にあります。つまり、個人を超え、すべての人に普遍的に存在するといわれる無意識の中ということです。ここにはすべての時間、過去・現在・未来のすべてが存在します。そして、この図書館にある本にはすべての言語のすべての組み合わせの本が存在しています。ホルヘはアルファベット文字の組み合わせにしか触れていませんが、実際にはすでにご覧になったように、漢字、ひらがなはもちろんその他の国の文字もすべて含めての組み合わせということになります。そして、その中には無限とも呼べる未来の出来事のパターンが記された本もすべてあります」
「カオス理論もびっくりだな。未来の予測は不可能じゃなかったのか? いったい何なんだ、この場所は?」
「ここは宇宙開闢のときから、すでに存在する……というかここから宇宙は創造され、生命も生み出されました――この図書館の外側にはあなた方になじみのある楽園が広がっています。いわゆる天国と呼ばれる場所です」
「ちょ、ちょっと待て。俺は死んだのか?」
「いや、あなたは生きたままでこの場所へおいでになったのです。だから、たいへん珍しいことだと最初に申しました」
「そ、そうか」
「はい。で、話を戻しますと――もっと単純にあなた方とこの場所の繋がりとしては、そうですね……例を挙げるとすれば、世にいう天才と呼ばれる人たちは、すべて、ここにアクセスしているのです。つまり、彼らのひらめきやアイデアといったものは無自覚のうちにここから持ち出されたものということです。私たち司書はそれをお手伝いしています。あ、ちなみに私のような司書は各階に一人ずついますので、全体ではそれこそ無数にいます。ですから、逆に言えば私たちは自分の担当する書庫の本のことしか知りません。ただ、この図書館すべての本について知っている方が一人だけいます。その方は司書ではないのですが、ホルヘの本でも紹介されている、いわゆる「本の人」と呼ばれる方です」
「だけど、それじゃ「本の人」以外では本当に求めている答えに導くことができないじゃないか」
「それが人は自分の必要とするジャンルというか、その専門に関する本が集まる階へと自然にリンクしてくるのです。それはここにアクセスできる人たちの条件として、直観力の優れた人ということがあるからです。さらに言えば、生まれる前にあなた方はここへ何度も訪れています。ですから、当然現世での幸せな人生の送り方についても本来は知っているのです。ただ、人は肉体を持つと、その限界的性質からここでの記憶を失ってしまいます」
「それじゃ、意味がない」
「ええ確かに。そのままでは、という意味ですが。確かに現世では人の脳には表層意識というものがありますから、いろいろと雑念が生まれます。これは肉体的限界につられ、知識の運用は限定的となり、そのために誤解や錯覚が生まれるということです。ですが、本来は人間になって数々の素晴らしいことを成し遂げる方法、やり方つまりその為の行動の選択の仕方をすべて知っているのです」
「でも、それをすべて忘れてしまうってことなのだろう。じゃあ、どうしろって話だよ」
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