新生喜劇~LA RENASCITA COMMEDIA~
3
その後、会話もなくイーストリバーの川面にたくさんの小さな光の粒が踊るようにきらめくのを眺めながら、ゆったりとした時間を楽しんだ。とてもロマンチックな瞬間だったが、興をそぐように、便意を催した私はそそくさと席を立った。
トイレのドアを開けると、大きな文字でOld World vulture (ハゲワシ)と描かれている赤いTシャツに身を包んだ男とぶつかりそうになり、狭いドアの間で、同じ側へ道を譲りあうというありがちな動きを何度か繰り返したあと、ようやくのこと中へ入ると、突然白い光に包まれ、当然のようにまた移動した。
目を開くと、今度は最もなじみのある場所、というか臭いが待っていた。久しぶりに嗅ぐと、鼻が曲がるような強烈さがある――魚のにおいだ。ここに住んでいた頃は、嗅ぎすぎて鼻がおかしくなっていたのか、まったく気にしていなかったことが信じられない。
私のふるさと石巻は漁港の街で、人口でいえば、仙台市に次ぐ、宮城県第二の大きな街だ。ただ、仙台のような都市ではなく、本当に日本中どこにでもあるような田舎の街だ。彼女と僕は石巻で一番の眺望を持つ、日和山から目の前に広がる海を見下ろしていた。海の色と、風の感じから言って、どうやらこれまでの場所同様、夏が訪れたばかりの季節に思える。
「結婚って、新しい家族を生み出すってことよね」彼女が言った。「でも、離婚したら家族じゃなくなるのよね。血の繋がった親子や兄弟なら、そんなことはないけれど、元は他人のあなたと私ではそれはありえること。それじゃあ、家族には二つの種類があるってこと? 解消が可能な家族と、切り離すことのできない家族。どっちが本当の家族なんだろうね?」
「まあ、どっちってこともないだろうけれど、これだけ人がいれば、世の中にはまったく血の繋がりのない人たちが集まって、家族なんてパターンも、きっとありえるだろうからね。要は大事なのは絆なんじゃないの?」
「絆?」
「そう、たとえば結婚って契約だけど、それは紙きれによって結ばれた繋がりよりも、心の結びつきの方が実体ってことなんじゃないのかなあ」
「それが愛ってこと?」
「そうだね。俺はそう思うけど」
「そうね……」
そう言って彼女が微笑むと、どこかでカメラのシャッター音がした。そして次の瞬間、目の前の彼女が一枚の写真に変わり、同時にまばゆいほどのフラッシュに包まれた。
目を開けると、今度は見たことも訪れたこともない世界に立っていた。私は思わず息をのんだ。そこは巨大な六角形の部屋で壁一面に、大きな本棚が立ち並び、無数の本で埋め尽くされていた。床や天井は透明な何かで、上にも下にも同じような部屋が永遠と思えるほどに続いていた。
私は自分が軽いパニック状態にあることに気が付き、大きく深呼吸して、気を静めた。それから、とりあえず、本棚に向かい本を一冊手にしてみた。どの本も背表紙にはタイトルや作者名などは記されてはいなかったが、開いてみると、そこには見覚えのある文章が並んでいた。前に一度だけ読んだことのあるウンベルト・エーコの『薔薇の名前』だ。ショーン・コネリー主演の映画を観て感動して、すぐに図書館で借りて読んだものだ。懐かしさに思わず、顔がほころんだが、そのとき、背後に人の気配を感じた――振り返ると、そこには金髪碧眼の青年が立っていた。ベージュ色のタータンチェックの三つボタンのブレザーに水色のボタンダウンシャツ、上着と同系色のコットンパンツに茶色のコインローファーといったアイビーリーグの見本のような恰好に身を包み、女性のようなきれいな顔立ちで、彼は私に向かって微笑むと、小さくおじぎした。つられて、こちらも頭を下げた。そこで初めて自分の格好――白の無地のTシャツに色落ちしたブルーのデニム、そして赤のハイカットのスニーカーに気がついた。まるで八十年代のアメリカの青春映画にでも出てきそうな、そのいでたちに急に気恥ずかしくなった。
「初めまして。僕はこのバベルの図書館で司書をしている者です」
青年が言った。
「バ……え? 何? 」
驚き、たじろぐ私など意に介せずといった感じで青年は話を続けた。「驚かれるのは無理もありません。ここに生きている人が自覚的に訪れるのは極めて珍しいことですからね。僕の記憶ではホルヘさん以来ですね」
「ホ、ホルヘ……?」
「ホルヘ・ルイス・ボルヘス。アルゼンチン出身の小説家で、詩人です。彼が書いた、『伝奇集』の中に収められている、『バベルの図書館』はこの場所を描いたものです。その描写は実際のこことはだいぶ違うのですが、それは下界へ戻ると、ここでの記憶はほとんど消えてしまうからです」
「それじゃあ、どうやってその本を書いたんだよ?」
人見知りの私はATフィールド全開だったが、旧知の仲のように、思わず突っ込みを入れていた。
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