新生喜劇~LA RENASCITA COMMEDIA~
2
目を開けると、一目でその場所がどこかわかった――八木山ベニーランドだ。仙台都心部の西側に隣接する、青葉山の丘陵地にある大きな遊園地だ。東北初の総合遊園地で、一九六八年に開園した。すぐそばには八木山動物公園もあり、仙台市民にとってはおなじみのプレイスポットだ。
施設内には三十近いアトラクションのある、大型遊園地だが、二人は今、巨大な観覧車の真下にある野外ステージの前にいるらしい。どこかで屋台でも出ているのか、焼きトウモロコシの香ばしい匂いが漂っている。ステージの上ではバンドがジャズを演奏している。季節はやはり夏頃で、夕暮れ時だ。流れている曲はオーバー・ザ・レインボウ(虹の彼方に)で、やさしいピアノと落ち着いた感じのベースと色気のあるテナーサックスの奏でる、聴き慣れた美しいメロディは夕映えの空にきらきらと踊りながら、私たちの上に降り注いできた。
隣に座っている彼女の表情はとても穏やかだ。
「今、この瞬間のすべてを切り取って、全部そう本当に全部のもの、この景色も音楽も、それからこの空間を包み込んでいる空気も光も匂いもすべてのものを永遠の中に閉じ込めてしまいたいわ」
彼女はそう言うと、やわらかな視線を私に向けた。
「せめてビデオカメラがあればね」
私は外人のように両の掌を上に向け、肩をすくめるポーズでおどけてみせた。
「そういうことじゃないのよね」彼女は私から目を逸らし、目の前の観覧車を見上げた。「ビデオに匂いや、まして体感したこの感覚なんかは残しておけないでしょ。本当にそれが大切な瞬間なら、記憶にも残しておけるけど。でも、ほらよく鮮明な記憶とかいうじゃない? あれってどうなのかな? 写真やビデオの映像のように再生できるってこと? そんなわけないよね。大切な思い出って言っても、すべてのことを覚えてはいられないでしょう?」
「すべてを残しておく必要はないんじゃないかな?」
「え?」
「いや、別に悪い意味じゃなくてさ。人の記憶っていうのは確かに時が経てばいろいろと薄れていってしまうものだけれど、それが本当に大切なものなら、その思いだけはずっと残っていくじゃない。ならそれでいいんじゃないのかな」
「そうね……記憶は記録じゃないものね。人の記憶は、ていうか思い出って脳細胞じゃなく、心に刻み込むって感じだものね」
と、ここで突然電波障害の起こったテレビ画面のように、ザーっと砂嵐のようなものが目の前に広がると、またしても私たちは違う場所へと移動した。
目を開けると、イーストリバーが、向こう岸にはブルックリンの街並みが見える――この場所にも見覚えがあった。ブルックリン橋のそばにある、サウス・ストリート・シーポートのショッピングモール、ピア17だ。桟橋の上に建てられた巨大な船のような三階建ての商業施設で、私たちが二〇〇〇年に新婚旅行で訪れた場所だ。季節も確か、初夏だったはずだ。私たちはどうやら今、三階にあるフードコートのファーストフードの店で食事をしているところらしい。昼時で、店内はたくさんの客で埋め尽くされていた。
まるで船内のようなその店の窓際の席で、外に面した大きな窓から川沿いに停泊しているたくさんの船や、そのそばに建ち並ぶ摩天楼を眺めながら私たちは食事をした。それからその後、二人で酒を飲みながら、私は訳のわからない話を始めた。
「――君はそれを牽強付会の説だと言うけれどさ、まあ意味は道理に合わない理屈とか、筋の通らないこじつけの理論といったものだけど、さて、この理屈という字にも、道理という字にも使われている「理」という字は、ことわりって読むけれども、不変の法則、宇宙の根本原理、論理的な筋道といった意味で、それは確かに絶対的に正しいものといった印象があり、それゆえにその理から外れた屁理屈は許されるものではないといった感じだけれども、しかし、一方で人間には「理が非になる」「理に勝って非に落ちる」ということもありえるわけで、つまり人は絶対的ではない、神ではないということ。であれば、ここで一つ、最上級の屁理屈を言わせてもらえば、人においては「理(ことわり)」を文字通り(?)断ること、少なくとも心情的にはそれはありえるということなんだよね。まさに「真理」より、「心理」を優先する。人はそういう生き物ものなのさ」
「それは屁理屈じゃなくて、だじゃれでしょう」
彼女があきれたように言う。(当然だ)
0コメント